めんたいこ日記

鯨井可菜子が短歌について書くところ

前に進むために/短歌研究2023年4月号特集「短歌の場でのハラスメントを考える」に関して

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※鯨井個人の文責によるものです。

 

4月22日土曜日、駅前商店街のガストに腰を落ち着け、私はようやくそれを読むことに取り掛かりました。

「短歌研究」2023年4月号特集「短歌におけるハラスメントを考える」です。

もう我が家には、自分も寄稿した5・6月合併号が届いており、もちろん4月号も1か月前に同様に届いていて、家の中の手の届く場所にありました。

でも今日に至るまで、読むことができませんでした。振り返り、そのことを夫を相手に話していると泣いてしまうなど、あまりよい試みにはならなかったらです。こんなに長い間向き合えなかったことに、寄稿者のみなさんにはとても申し訳なく思います。どうしていつまでもダメージを引きずっているのかわからず、誰かをやはり傷つけてしまったのかと思いどうすればよいかわからず、それでも1月、2月に過ごしてきた過酷な時間を自分のなかでどう位置づけたらよいかわからないまま、今に至ります(実際には、ものすごく稼働しています)。

 

通りを見下ろす窓際の席で、ずるずると涙を流しながらたくさんの文章、作品を読み、ぬるくなったカフェラテを飲み下しました。

 

我々が予定通りの形でかかわっていても別に何も起こらなかったのかもしれないと、今なら思います。でも、あの時点で、他の選択肢はありませんでした。メンバー間には信頼があり、互いにケアできたことがだけが救いでした。昨年末のキックオフの時点でそれぞれの内省と「自分たちの心を守りながら」ということ確認しあっており、その指針がギリギリのところで守れたような、守れなかったような、というところです。

 

私個人は、さして長くはない歌歴のなかで複数の具体例を身近に見聞きしており、数年前には歌会の運営メンバーの1人として具体的な問題に対処した経験があり、同時に、10年ほど前にしてしまった異性の歌人仲間に対する言動を深く反省しています。もっとさかのぼると高校の部活動で顧問によるセクハラを受け心療内科にかかりました(今回、誌面に出る前のたくさんの体験談に触れたことも、あまりよくなかったかもしれません)。昨年担当した同誌の時評では、件の新人賞選考座談会における問題を指摘しています。

ですので、私にとって、短歌の場におけるハラスメントをなくしたいという願いは本心からのもので、ぜったいに必要なことだと思って参加しました。その判断は間違っていなかったと思います。

本特集へのかかわりについて早い段階から指弾されたことはとてもつらいことでした。歌友をすべて失ったような気持ちでした*1。寄稿者の方々には、そのようななかで執筆してくださったことに感謝しかありません*2。編集部には、編集方針に関するお願いを聞き入れていただき、ありがたく思っております。実際にたくさんの「声」が束ねられ、雑誌として世に出たことに、意義があるとまずは信じたいです。いろいろな人の手で、あらゆるやりかたで槌を振り下ろしていくからこそで少しずつ何かが変わる、前に進めると願っています(もちろん、これが最初の一撃ではないということは周知の通りかと思います)。

 

ドリンクバーでアメリカンコーヒーをもらってきて、小さなパフェを追加注文しました。

結局のところ、私の弱さが問題なのです。もうずっと短歌のことを考えたくなくて、友人知人の歌集も読めず、Twitterを3か月放置し、ほうぼうに酷い不義理を重ね、とにかく停滞し続けていたのですが、私自身が前に進むために、文章にしておきたいと思いました。

一読者として、この特集が読めてよかったです。そしてともに心を砕いた大切な仲間に、改めてありがとうと伝えたいです。

 

冷凍ベリーが載ったパフェは、ひんやりとすっぱく、おいしかったです。

 

(何かを掘り返したい意図はありませんので、どうかそっとこのまま、画面を閉じてくださいますように。)

 

 

*1:実際に心を寄せてくれた友人はおり、そうではないと頭ではわかっていたのですが

*2:しかるべき方法で事情をご説明しています

ようこそ、話し合いのテーブルへ/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店,2021)感想

 

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私がそのテーブルにつく理由

平岡直子の短歌について、私は以前から「綺麗だなぁと思ってショーウインドウに近寄ったつもりが、いつの間にか話し合いのテーブルにつかされている」と思っていて、それって“良さ”については何も説明できていないし、自分でもどういう意味なのかよくわからないのだけど、それでも半ば信仰のようにこのインスピレーションを胸に抱き続けてきた。そろそろ、その正体について真面目に考えてみなくちゃと思う。

 

まず、手がかりにしたのがこれらの歌。

012 茶封筒〈がん検診のおしらせ〉の字は宝石にたとえたら何

055 そうかきみはランプだったんだねきみは光りおえたら海に沈むね

095 裸ならだれでもいいわ光ってみて泣いてるみたいに光ってみせて

097 冷凍庫にほうれん草を眠らせたままでしずかに 膝を折りなよ

116 観客はじゃがいもと言われたじゃがいもの気持ちを考えたことがあるのか

 

これらは、〈歌〉から突然話しかけられる、問われる、何かを要請されるような構造の歌。

1首目、郵便受けから持ち帰り、テーブルに置かれている封筒だろうか。生活感あふれるモチーフから導き出される突然の問いに身がすくむ。油断してちゃだめなんだ。一方で、茶封筒から宝石が取り出されたような感嘆ももたらされる。

2首目。ランプ、光、海といったまろやかな語彙でやさしく肯定してくれるような口調。でも結句に、そうか私、沈まないといけないんだ。という甘美な詰みが待っている。

3首目。2首目に続いて「光る」ことの歌。「だれでもいい」のに、「光ってみて」「光ってみせて」と熱心に乞われる。「だれでもいい」のに、相手が「光る」ことについてやればできるっていう確信がある。

4首目。「冷凍庫」「眠らせたまま」「しずかに」の連打により、すでに息ができなくなっているというのに、「膝を折りなよ」とジェントルに提案される。身体のどこを曲げるか、ということについて「膝」は最もクリティカルでやばいと思う。立位なのか座位なのかはわからないが、そこに釘付けにするような動作だからだ。

そして5首目。全面的にじゃがいもの側に立った、非難めいた問いに思わず窮する。特徴は、2句目と4句目が9音の破調になっていること。この字余りにより自然と早口になり、〈問い詰め感〉が増している。でもよく考えたら、「観客をじゃがいも」にしてステージに立つような人間はほんの一握り。じゃがいもにされた観客のほうが圧倒的多数派なのだった。本当は私だってじゃがいもじゃないか。

 

というふうに見てきたけれども…。やはり、こういう話しかけ・問い・要請の〈構造〉だけでは説明がつかない。最初にはっきり〈話し合いのテーブル〉だと思ったのは何故だろう?少なくともネゴシエーションの話じゃないと思う。でも、魂に最も大切なものを差し出してくるから、ショーウインドウの外から「綺麗だなぁ」と無責任に眺めて楽しむわけにはいかない気持ちになるんじゃないか。だから私も、真剣に応えようと、覚悟を決めて椅子を引くのだ。

 

〈わたし〉と〈きみ〉のイノセンス

以下には、平岡直子の超代表歌!を含むと思う(このなかの4首は帯にも引かれている)。

009 きみの頬テレビみたいね薄明の20世紀の思い出話

018 水からも生きる水しかすくわないわたしの手でよかったら、とって

029 手をつなげば一羽の鳥になることも知らずに冬の散歩だなんて

057 海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した

063 わたしたちの避難訓練は動物園のなかで手ぶらで待ち合わせること

072 三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

 

怒涛のポエジーに圧倒されながらも何とか見つけたヒントは、“無垢である”ということ。

巻頭に置かれたのがこの1首目。「20世紀」のノスタルジックな語感が、ぼおっと光をたたえたブラウン管の姿を浮かび上がらせる。「20世紀」で「思い出」、つまり過去のはずなのに、「薄明」により「きみ」はまっさらな存在となり、物語がはじまる予感を連れてくる。

2首目、3首目は「手をとりあう」ことが核にあるのだけど、〈取り返しのつかなさ〉みたいなものが迫ってくるのはどうしてだろう。2首目はさながら〈契約〉だし、3首目は単にかたちのことを言っているのではなく、不可逆な変身を指しているような気がする。

そして4首目、5首目。いっしょに読むと、「わたしたち」は安全なところにいないのだと思う。「生き延び方」について話す必要があるし、「避難訓練」だって怠ってはならない。6首目にも、待ち合わせ場所にたどり着くことができない、寄る辺なさがある。「悲しいだった」という舌足らずな繰り返しも、イノセンスの現れのように思えてくる(でも幼いという感じはしない)。強い信念をもっていながら、生きるのに危うく、どこまでも無垢な存在として、〈わたし〉と〈きみ〉は、手を取り合ってずっと旅をしている。

 

天国のことを見てきたように

116 わたしにも父のと同じイニシャルがあるけれどそれ壊れているの

132 窓、夜露、星条旗、海、きらきらとお金で買える指輪ください

137 熱砂のなかにボタンを拾う アンコールがあればあなたは二度生きられる

1首目、「父」とのつながりを示す記号としてのイニシャルが、「壊れているの」、つまり機能していないということ。親子関係の暗示だと飛びついて読むのは簡単だけど、それ以上に、「イニシャル」が壊れたちゃちな金具のような姿をさらしているのが強烈だ。この歌の読みどころはこっちじゃないかな。

2首目、3首目、魂の栄養のために必要なものを希求していると思う。熱砂のなかに拾ったボタンはきっと金属で、指先にもその熱が伝わってくる。「アンコールがあれば」と第三者的に言ってはいるけれど、一番に願っているのは「あなた」に相対する「わたし」で、その指でアンコールを起こすことができるような気さえする。

 

平岡作品の詩的な引力は、〈腕〉を持っていると思う。それくらい強く、私たちの身体のどこかを明確に掴んで、その世界に引きずり込んでくる。話し合いのテーブルにつかされるのも、半分はそのせいだと思っている。

 

020 ピアニストの腕クロスする天国のことを見てきたように話して

天国のことを見てきたように、この歌集のことを誰かに話したいと思う。

そしてお土産にもらった、美しく光る短刀(おもちゃかもしれないけれど、それでいい)を胸に携えて、同じ時代を生きていきたい。平岡直子と同い年であるということは、私の自慢の1つなのだ。

 

 

 

【ネタバレなし版】恋がしたくなるか?否。でも、パン屋に駆け込むことになる〜錦見映理子『恋愛の発酵と腐敗について』について

 

 


錦見映理子さんの小説『恋愛の発酵と腐敗について』(小学館)は、太宰治賞受賞作である『リトルガールズ』に次ぐ2作目。『リトルガールズ』が大好きだったので、AppleBooksでの配信版も楽しみに読みました。

で、読んだ結果起こった現象が、これ。↓

 

登場人物〜やばいパン屋と女たち

登場人物は、ざっとこんな感じです。

  • 万里絵…会社を辞めて「紅茶の店マリエ」をオープンさせた女性。20代の終わり。
  • 早苗…マリエの客で、同じ町内のスーパーでレジ打ちをしている43歳の女性、夫を9年前に亡くしている。
  • 虎之介…えーと、えーと、パン屋です!!!!30代。
  • 伊都子…虎之介の妻で、スナック「ルビー」の店主。50代。
  • 三上…マリエの向かいの酒屋さん。
  • 矢崎…万里絵の元上司。

 

虎之介は一言でいうとやばいパン屋なのですが、彼を中心に、主人公の万里絵や早苗、伊都子が絡み、そこに、万里絵のことが好きな男たちも出てくるんですね。いかにも、いかにもな感じがするでしょう?

 

でも、なんかそうじゃなかったんですよね。

 

例えば、〈読んだらもう一度恋がしたくなる…!〉というような惹句が似合う恋愛小説の名作も世間にはたくさんあるのですが、この「恋発」は全然、そういう感じではありませんでした。でも、読後の感動が体中を駆け巡った結果、パン屋に駆け込んでサンドイッチを錬成する、そういうことは起こったのでした。

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手作りしたサンドイッチって美味しいな〜!って思ったの。

 

「恋愛」をイチから腑分けする試み

2022年である今、恋愛をするもしないも自由、押し付けるなんてもってのほか、というのは前提として共有しておきたいのですが、前作『リトルガールズ』でもそうであったように、別に錦見さんは、手放しでヘテロの恋愛を称揚しているわけではないんですよね。

 

この小説では、恋愛の過程をパン生地の発酵になぞらえているのがポイントですが、背景にあるのは、「恋愛」を〈関係〉と〈感情〉と〈行動〉にバラして観察してみたい!という探究心ではないでしょうか。

作中にみられる関係性は、カフェの店主と仕入先のパン屋、元上司と部下など、けっこう“よくある組み合わせ”のように見えます。でも、この“型が決まっている”ところが実は重要です。パンの型は決まっているなかで、どれだけ生地をこね直して新しいパンを焼成できるか。錦見さんはそんな試みをしているのだと思います。

そのような意味では、「恋愛小説かぁ、ちょっと苦手だなぁ…」と思う方にも、手にとっていただきたいなぁと思う1冊です。

 

とはいえ、序盤から中盤にかけてのスリリングな展開もやっぱり恋愛小説らしい見どころでしょう。だって一人で慎ましく暮らしていた43歳の女性が突然ものすごい恋に落ちたらどうなると思います???急速に発酵していく感情が巧みに(そして面白く)描かれるので、本当にページをめくる手が止まりませんでした。

 

肉声を感じる心地よい文体も健在です。私、『リトルガールズ』のときに紅茶を飲ませていただくようなイメージを持っていたんですけど(下記)、なんと2作目で読者として「マリエ」で紅茶を楽しむ展開になりました。すごくない?

 

私の感動の根幹は、まさに物語の結末に関係するので、別の記事に書きたいと思います。

そして、明日、錦見さんとインスタライブでお話しします!やばい創作ノートを見せていただけるらしいですよ!読者代表としていろいろなお話を伺えたらと思います。

 

 

無色の焔と、消えない星〜第66回まひる野賞受賞作品 佐巻理奈子「職を失う(原題:スター)」に寄せて

歌友の佐巻理奈子さんが、所属の「まひる野」で第66回まひる野賞を受賞されました。なこちゃん、本当におめでとう!

まひる野」に掲載の作品を読ませていただいて、とってもよかったので、少しだけ感想を書きたいと思います。(以下、である調)。

 

 

ティッシュに託されたもの〜職場を離れるということ

有休の十五日間のプレ無職経て無職へとなりたるわたし
補助業務の補助はどこまでだったでしょう 五時のチャイムの響く薄明

1首目は連作の冒頭に置かれた歌。これにより、はっきり「何が起こったのか」「この連作のテーマが何なのか」が伝わる。「無職」という言葉は、とても重い。でも、有給休暇の消化について「プレ無職」と軽い言い方をしてみることで、自らの心を支えようという姿も見えてくる。

そして、自分の担っていた「補助業務」について思いを巡らせる2首目。やる気があったりよく気がづいたりする人は、気づけば「補助」の範疇を超えてその職場を支えていることがある。「どこまでだったでしょう」という穏やかな口語での自問自答が、あいまいな夕方の光に紛れて、やっぱり答えは見いだせない。

 

Kさんにあげた残りの箱ティッシュそろそろ次の箱になるころ

退職にあたり、同僚の「Kさん」に「残りの箱ティッシュ」を「残ってるから、よかったら使って」と譲ったのだろう。でも時間がたてばその箱も空になり、「そろそろ次の箱になるころ」だろうと思っている。「残りの箱ティッシュ」が空になって捨てられるとき、その職場にいた「わたし」が本当に居なくなるようだ。去らなければならなかった職場に、「わたし」がいなくなっても時間は過ぎてゆく。平熱の歌いぶりであっても、その痛みはたしかに読者に手渡される。

 

「会社都合退職です」と言うときのそれでも雨飲むような喉よ
※ルビ:「喉」=「のみど」
この前にはハローワークでの場面を歌った歌が続くので、その窓口での会話だろうか。「会社都合」と「自己都合」では受けられる雇用保険の給付内容が変わってくる。「それでも」、雨を飲むような苦しさは変わらない。初句では、窓口で、感じよさを保ちつつある程度明るい声を出しているのだろうと思う。だからこそ下の句の苦しさが浮き立つ。

 

北国に暮らす人の語彙

雪泥に汚れた橋に彫られたる鮭追い越してまもなく日暮れ

この歌は、歩いて橋を渡っている場面。川と「鮭」という組み合わせは「力強い遡上」を思わせるが、その鮭を追い抜いてゆく確かな足取りがある。「鮭」もまた北海道ど真ん中の語彙だけれど、「雪泥」もまた、北国の生活に根ざしている言葉だと思う。もちろん、九州に育った私自身はこの語彙を持っていない。

ここで詠まれているのは、橋の欄干の装飾としての「鮭」だ。それに目をとめてしっかり描写しているのもすごくいいなと思う。

 

白鳥はあんまりおいしくないと知りスマホを消して眠りにつけり

寝入りばなに布団の中で、ふと変なことを検索してしまい、一応の答えを得たので眠りについた、そんな風に読める。初句に登場した「白鳥」が堂々の「北国性」を帯びていながら、「あんまりおいしくない」という意外性のある展開につながるのが面白い。が、私はつい、最近一気読みした「ゴールデンカムイ」の一節を想像したのだった。そう考えると、もしかしたらスマートフォン電子書籍を読んでいたのかもしれない。

 

暗がりの揺らめく底に沈みたる金貨いつまでも祈りが残る
続いて置かれた歌は、眠りに落ちてゆくような心地よさがある。(…これもゴールデンカムイかもしれないな…?)

 

生命力を「視る」

とろとろと灰汁をとるなり開口の浅蜊のたましい浮かぶあたりを

けやきから無色の焔あふれだしだれも気づかず燃え尽きていく

煮える鍋に浮かぶ「浅蜊のたましい」、街路樹の「けやき」にあふれる「無職の焔」。佐巻さんには、これらを「視る」力があるのだと思う。見過ごされて燃え尽きてゆくことは、顧みられることなく職場を去る自らの姿とも重なる。でもその歌いぶりは、あくまでもやわらかい。

 

吸い上げる分だけ上へ伸びていく豆苗みたいに美しくなる

縛られたまま咲きあふる連翹のやりっぱなしのやられっぱなし

ここで出てくる豆苗は、スーパーで買って、一度食べたあとに根っこをもう一度水につけて育てているものだろう。台所で光る、透き通った白い茎。そのように素直にたくましくありたいという願いも込められている。その生命力への憧れは2首目にも感じられる。縛られていてもなお、エネルギーをほとばしらせて、黄色い花を咲かせまくっている連翹。「やりっぱなしのやられっぱなし」は、やけくそっぽいけどどこか明るい。

 

原題の「スター」について

1人の読者として、原題の「スター」を私はとても素敵だと思う。

掲載された受賞作には含まれない歌だが、佐巻さんに教えてもらったので個人的に鑑賞したい(ご本人に許可を頂いています)。

 

野良猫の「スター」の腹の横の傷 いちどだけやってしまった猫缶

「野良猫」には誰かがつけた「スター」という名があった。寄る辺ない野良猫への共感、いけないと知りつつも猫缶を「やってしまった」ことへの自省などが、この歌にはこめられている。


佐巻さんはなぜ、「スター」をタイトルに掲げたのか。

それはこの一連にある〈祈り〉を大きくまとめる言葉だからではないだろうか。

職を失ったこと自体は、冒頭の1首のように、自ら歌にすることで昇華し、乗り越えたいという姿勢がある。つらくとも「スター」の光を見失わず、しっかり歩いていきたいという意思が、この一連をやさしく照らしていると思うのだ。

そう願う心がある限り、「スター」の光は決して消えない。

 

落ち着いたら、落ち着いたらと約束をかさねて編んで一年のこと

※ルビ:「一年」=「ひととせ」

「感染が落ち着いたらご飯行きましょうね」といった類の約束が、どれだけ交わされてきたのだろう。「かさねて編んで」という動詞に、いつになるかはわからない、でも“ぜったい”、という祈りが込められている。

 

 

なこちゃん、改めておめでとう。「落ち着いたら」一緒においしいもの食べようね、ぜったい!

『別冊北山あさひ』収録エッセイ全19編ライナーノーツ

大変お待たせいたしました。『別冊北山あさひ』、期間限定で自家通販を開始しました。

*まずは2021/2/14までの受付としております!是非この機会に!

docs.google.com

 

さて、この記事では、収録した19編のエッセイ・散文について書きます。
この別冊作成にとりかかるにあたり、北山さん本人と、編集を担当した佐巻さんと私はそれぞれ、ブログ「北山あさひのぷかぷかぷー」を最初から最後まで通読して、意見を持ち寄りました。その後、初出が異なる原稿を足したりページ数の関係で泣く泣く削ったりして、最終的に北山さんがすごく加筆修正をがんばって現在の形(18編+書き下ろし1編)に落ち着いた次第です。

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以下、なるべくネタバレのないように書いていきますので、購入してみようかな!という方はちらっと見てみてください。そしてお手元に「別冊」がある方も、ぜひご覧いただけると嬉しいです!


書き下ろしエッセイ その名は「ファーマーズ8」

北山あさひのエンタメ精神が炸裂。それでいて、世界中が未曾有の事態に見舞われている今、タイムリーに読みたい文章になっている。『崖にて』の連作「ALIVE」や、『短歌ホスピタル』(2015年)所収の巻頭エッセイ「医療の仕事の楽しみ方」を合わせて読むと楽しいのでおすすめ!

ほんとにもうゼネカ様にコロナをなんとかしてほしい。あと私はジョンソン姉妹と今冬のベスコスについて小一時間語り合いたい。

 

*以下、Ⅰ〜Ⅲの3つの章に分けて収録。実際の冊子では、各章の間に一首評が挟まっています。


Ⅰ 北山あさひのぷかぷかぷー

晴れの日はプカプカプー(2012)

記念すべきブログ1本目の記事。9年前のものになります。この文章で好きなフレーズは「度肝抜き」。私は私でもう長い間、北山さんに度肝を抜かれまくっている。

 

Communication(2013)

初めて読んだ頃からずっと心に残っていた。私はこの文章の魅力について何度も立ち止まって考えてしまう。誰しも、職場に苦手な人、嫌いな人はいるだろう。だけど、そこを起点にどうしたらこんな文章が紡げるのか。何度読み返しても胸がギュッとなる、でも読後にはほんのり風が吹くのだ。


婦人科検診へようこそ(2015)

女性にだけついてまわる色々なこと。ときどき本気で燃やしたくなるけれど、自分の身体はやはり自分だけのものなのだ。レミ先生がマジでレミ先生です。


父アキラ、死出の旅(2015)

書き出しも衝撃的ながら、最後の一文に私は永遠に殴られ続ける。簡単に言うべきではないけれど、私は、これは「供養」なんじゃないかと思う。何度読み返してもこの一言が、冬の夜空のシリウスのように、輝き続ける。

 

蒼い夜と老婆になる私(2016)

雪。これから北山あさひが何度でも書くだろう雪のこと。読むうちに周囲の空気が透き通り、蒼くなり、そして音が消える。

 

わたしたちだけの原野(2016)

仕事を終えて、同僚と焼肉を食べに行く。ごくありふれた日常の一コマなのに、こんなことになってしまうのがマジで北海道(震え声)。途中、さらっと書かれているけれどけっこう怖いシーンがある。

 

松本先生のサンドイッチ(2016)

高校時代の先生の思い出。終盤の、授業中の出来事の記述が光る。ここで「私」を差し出しているから、この文章は心に残るのだと思う。

 

名前をつけてやる(2019)

名前をつける、という行為への考察。思考停止ボタンのようでもあるし、一方で大切なものにとくべつな運命を授ける力をもっている。

 

まくらのそうし風に(2019)

春夏秋冬の、好きなもの。札幌の空気が鼻の先まで、「こんにちは」ってやってきてくれる、そんな一編。

 

Ⅱ 夜からこぼれた物語

*この章はタイトルの通り、物語形式の文章を集めたもの。少しだけあらすじを解説します。

ファミリーレストラン・アイドル~激走編~(フリーペーパー「ココロブス」,2014)

海辺のとある町の国道沿いに立つ「ファミリーレストラン・アイドル」。そこでアルバイトをする高校生・マリの視点で、ある日の一場面が紡がれる。短い夏の光が、マリの世界に独特の陰影をつくりだす。書き出し、そして最後の一文が絶品。

(「アイドル」には、後編とあわせて谷じゃこさんが素敵なイラストを寄せてくださっています!)

 

ストーブ点検物語(2013)

「北山さん」の家に暖房の点検にやってきた、「植村さん」と「工藤さん」のおはなし。これは鯨井最推しの一編!

数年前に飲んだ串鳥の鶏スープは、確かにトレビアンだった。また行きたいなぁ。

 

死神のこども(2013)

就職活動中の「私」が帰宅すると、家出した「死神のこども」が忍び込んでいて……。家出の理由とは、そしてその顛末とは。

しばらくすると起きたので⾯接の練習につき合わせた。「生きがい」という言葉を使うたびに死神のこどもは「ヒヒッ」と笑った。最初はまじめにやれと注意していた私も、だんだん「生きがい」という言葉がおかしくなってきて一緒に「ヒヒッ」と笑った。

ところで、エッセイのいくつかには「2020年の追記」が添えてあるのたけど、この「死神のこども」の追記はさらっと読んで二度見した

 

顎を割られた平井くん(「ぼけっと」第1号,2014)

怪我をして学校を休んでいた「平井くん」に、「プリントやらノートのコピーやら」を届けにきた学級委員の「私」。

「顎を割られた平井くんに久しぶりに会った」。何度も書き出しの魅力について触れてきたけれど、これもまた衝撃的。

 

幽霊まん(2014)

雨の夜、友人のSNSを見て憂鬱になってしまった「私」。夕食をとっていなかったことに気づき、チルドの肉まんをレンジで温めたのだが……。

前半ににじみ出る心の痛みと、思いもよらない後半の読み味のギャップがたまらない。「2020年の追記」も読んで、世の中の変化も感じてほしい。後半に登場した人物については、私は途中から何故か脳内で大泉洋がしゃべるようになってしまい、困った。

 

ファミリーレストラン・アイドル~閉店編~(2013)

「激走編」のその後を描いた続編。サブタイトルの通り、海辺のレストラン「アイドル」に閉店の日がやってくる。

大好きなフレーズを、前後が謎のままあえて引用(ぜひ全体を読んでほしい)。

桃⼦さんは眉ひとつ動かさずに⻯⾺を茹で、⼩五郎を焼き、すべての勝⾙⾈を開いた。

店長の最後のセリフは、作者の祈りや希望かもしれない。そして最後の一文が、潮風に吹かれ続けるように余韻を残す。

(「閉店編」はブログが初出。「激走編」「閉店編」は掲載媒体が違ったこともあり、元は2編とも同じタイトルだったのを、今回別冊に収録するにあたり本人がサブタイトルをつけました)


Ⅲ いつも春の街

その島へ(「歌壇」2019年5月号)

兵庫ユカさんの歌の鑑賞から始まるエッセイ。その島へ、いつかみんなで一緒に、たどりつきたい。

 

いつも春の街(2014)

こちらは佐巻さん最推しの一編。短いながら名作。「そうこうしているうちに」の一文が何度読んでも好き。

 

十一月二十六日の目白通り(2019)

2019年11月26日というのは現代短歌社賞の授賞式があった日です。

お願い全人類読んで。

 

 

まだまだ多くの方に届けていきたいと思います。よろしくお願いします!

 

 

 

黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』評/〈欠落〉と〈余剰〉にみる父性

f:id:kujirai_kanako:20210201012640j:image黒瀬珂瀾さんの歌集『ひかりの針がうたふ』(書肆侃侃房)を読みました。ちぎった紙で波を表現した装丁が素敵です(山階基さんによるもの)。

私が福岡にいるときにとてもお世話になった、からんさん。私が福岡を離れ、その後からんさんも離れ、だいぶ時間がたった今、まるっと福岡在住時の歌集が出たことにびっくりしました。以下、大まかに2つのテーマで歌を引いていきたいと思います。

 

ひかりの針がうたふ (現代歌人シリーズ31)

ひかりの針がうたふ (現代歌人シリーズ31)

  • 作者:黒瀬珂瀾
  • 発売日: 2021/01/24
  • メディア: 単行本
 

 


父性を詠う〜〈欠落〉と〈余剰〉

乳児を育てる父としての歌をまず引きます(以下、冒頭の数字は掲載ページです)。

 

024 『どうぶつのおやこ』の親はなべて母 乳欲る吾児を宥めあぐねて

085 おつぱいがかたい、と泣きて寝入りたり父の臀部を揉みしだきつつ


これらの歌で詠われるのは〈欠落〉。父である自分が〈乳をやる機能〉をもたないことにフォーカスしています。子育てに主体的にかかわっている姿がたくさん登場するからこそ、まずそこに目がいきました。

 

070 産めやしない、産めはしないがアメジスト輝け五月なる疾風に

106 飛鯊(ルビ:とびはぜ)は夕陽へ逃げて朽網川(ルビ:くさみがは)しづかなりわれは母になれぬを

107 妻と児を待つ交差点 孕みえぬ男たること申し訳なし

 

これらはもっと直接的に、自らに〈産む機能〉がないことを述べています。3首目では結句で「申し訳なし」とまで言うのですが、「交差点」の語が示唆的。運命が偶然に交差して妻と子と出会ったようにも、妻と自分が入れ替わりうる存在であるとも読めます。


061 俺にぶら下がるもの指して「うんこでた」。さうだ、捨てたき時もある、これ

 

乳房をもたないという〈欠落〉に対し、こちらでは「ぶら下がるもの」「さうだ、捨てたき時もある」と述べています。「男らしさ」にまつわる煩わしさを「捨てたき時」もあるということに加えて、これは〈余剰〉という捉え方もできないでしょうか。

親として、必要なものがついていなくて、いらないものがついている。〈父たる我〉に対するそんな捉え方が印象的でした。

 

073 児は歌ふ「ちひさいひごひはおとうさん」いかにも父は風に揺らぐよ

093 乳母ならぬ身も乳母車押しながら時に覗きつ息はあるかと

 

1首目は、「こいのぼり」の歌詞を間違えている子どもの様子。本来は「おおきいまごいはおとうさん」なのですね。下の句には、「いかにも父は風に揺らぐよ」と、「大黒柱っぽくない私」をあえて受け入れる姿があります。

2首目は、これまでも詠ってきた〈乳〉へのこだわりと絡めて、ベビーカーをあえて古風に呼ぶことによるレトリックが光ります。ここで描かれるのは、静かに眠っている子どもがちゃんと息をしているか、そっと確かめるという行為。〈父〉も〈母〉も、乳児という脆い命を守る存在には変わらないのです。

 

101 秋の陽は求菩提(ルビ:くぼて)の峰を光らせて母になれねば父となるなり

117 保育所の扉ひらけば埠頭へと舟寄るごとくわが脚に着く

 

求菩提山(くぼてさん)」は、福岡県豊前市にある修験道の山。前掲の「飛鯊は夕陽へ逃げて朽網川しづかなりわれは母になれぬを」と同じように、上の句に九州の風土を写し取り、下の句に心情を述べるという形式の歌です。秋の日差しに包まれる山の稜線を見つめて、「母になれねば」“その代わりに”「父となる」という把握が詠われています。

一方で、2首目で私は「埠頭」に注目しました。保育所に迎えに行った自分の脚に、かけよってきた我が子の様子を「埠頭」に舟が寄り付くさまに例えています。これは自らが仕事で乗っている舟と重ね合わせているのですが、「埠頭」たりうるのは、父という体躯があってこそではないか、と思うのです。


九州の風土を詠う〜過客ならではの視線

もうひとつ注目したいのが、九州の風土が豊富に詠われていることです。

なかでも印象的なのは仕事に関連する〈水辺〉の歌。

 

084 室見川海にひろぎて夕照を徒歩(ルビ:かち)にてわたる男の影よ

088 波去りて八月尽の能古の影にしづみ来たりぬ秋のひかりは

 

水辺の光が印象的な2首を挙げました。1首目の室見川(むろみがわ)」は福岡市の西部を流れて博多湾にそそぐ川。椎名林檎さんの「正しい街」の歌詞にも登場します。たっぷりと輝く河口の景に「男の影」が絵画のように映えて、岩波書店のロゴの「種まく人」を連想しました(あれは水辺じゃなくて畑だけれど…)。

2首目に詠われる「能古の影」は、博多湾に浮かぶ能古島(のこのしま)」の島影を指します。信じられないことに市営船で10分で着いちゃう島。都会にものすごく近い分、福岡の海辺の景色でかなりの存在感を占めています。内海であるおだやかな博多湾に「秋のひかり」が静かに満ちている様子が美しい歌です。

 

074 みづくらげただよふ博多湾の朝流されてゆく世間の方へ

ふらふらと「世間の方へ」流されていく「みづくらげ」の姿に批評性があります。軽めのレトリックのようですが、陸地にぐるりと囲まれた博多湾の特殊な形は、閉塞感をも暗示しています。


105 玄界灘PM2.5にかすむ 母国はありて父国はあらぬ

123 これうみにうごくと?と指さす川に青鷺はいま魚を呑みぬ

 

1首目は、前述してきたような〈母〉に対する〈父〉の欠落・不足を詠んでいますが、ここで地域性を感じるのはPM2.5です。この地では、海の向こうからやってくる黄砂やPM2.5が悩みの種(とくに春の黄砂はすごい)。雄大玄界灘は、過去も今も、大陸からいろいろなものを運んでくる海なのです(補足すると、博多湾があって、志賀島とを繋ぐ細い陸地があって、その外側が玄界灘)。

2首目は、川の水が「うみにうごく」という幼児のみずみずしい感受性を詠んでいますが、覚えたてのことばとして博多弁の語尾「と?」が出てくることに胸を掴まれます。おそらく父母は博多弁ネイティブではないでしょうから、社会的に(保育園などで)輸入してきた語彙なのだと思います*1

 

私自身は東京在住時に歌を初め、その後地元福岡に戻り、3年間暮らしました。が、あまり自作には地名やら何やら、登場しないのですよね(ゼロではないけど)。

この歌集の最後の章タイトルは「九州を去る」。自分は過客であるという意識が、このように彩り豊かな土地の歌を残したのかもしれません。

 

 

この歌集の歌はおそらく2010年代前半のもので、震災からあまり時間がたっていない時間軸。北九州市での瓦礫の受け入れや、自身が参加した相馬市での除染作業についても触れられています。2首だけ引いておきます。


035 線量を見むと瓦礫を崩すとき泥に染まりしキティ落ち来ぬ

084 サーベイヤー構へてをれば「放射能ですか」と問へり水着の人は

 

1首目、被災地から受け入れた瓦礫から「泥に染まりしキティ」がぽとりと落ちます。瓦礫はまぎれもなく生活の跡であり、人の思いが残るものであるということを、このキティは雄弁に語るのです。

そして、当時の九州にあった被災地との「温度差」を突きつけてくる2首目。「水着の人」の呑気さ、他人事感(もしくは逆に過剰な心配)が刺さります。

 

 

2012年秋、からんさんと私を中心に福岡歌会(仮)という歌会が始まりました。当時の参加者の作品をまとめた「福岡歌会(仮)アンソロジー」という冊子(2013)から、恥ずかしながら拙文(編集後記)を引用します。

 

 勢いで、気になっていたことを尋ねてみる。「福岡なんて地方に来るの、嫌じゃなかったんですか」。思いのほか、答えはおおらかで前向きなものだった。「ジャーナリスティックになりすぎずに、自分のやりたいことをじっくりやれる環境だと思う。それに、その土地にはその土地の叙情があるものですよ」。だいたいそんなようなことを、珂瀾さんは語った。わたしは東京で短歌を始め、仕事の都合で福岡に戻ってきていた。以来ずっと中央をうらやみ、うじうじと悩んだりいじけたりしてきたのだった。抱え続けてきた暗い塊のようなものが、ゆっくりと氷解していくのを感じた。ああ、ここまでくるのにわたしは二年半もかかってしまったんだ。琥珀色のビールはさっぱりと苦く、麦のよい香りがした。

『福岡歌会(仮)アンソロジー』(2013) P.28-29 編集後記「ブルックリンラガーの秋」(鯨井可菜子)

 

「その土地にはその土地の叙情がある」。その言葉は長らく私を支えてくれましたが、2021年に出たこの『ひかりの針がうたふ』という歌集が、ほんとうの意味で私にそのことを教えてくれたような気がします。

 

…さて、飲み会の思い出を書くと台無しになってしまうので、このあたりで(ぜんぶ楽しかったんよ!)。またいっしょに赤煉瓦文化館で歌を詠んで、みんなでごまさばを食べて焼酎を飲める日が来たらいいな、と思っています。

*1:私自身、幼稚園のときに覚えてきた言葉で母をびっくりさせていました。「○○げな〜」という言い回しなど(○○なんだって〜、○○らしいよ〜という意味。古語の影を感じる)

『別冊 北山あさひ』のこと

『別冊 北山あさひ』は、2020年11月、北山あさひ第一歌集『崖にて』(現代短歌社)刊行を記念して、北山オタクの私と佐巻理奈子さんがまとめた冊子です(樋口智子さんいわく、「公式ファンブック」)。そうそうたる歌人のみなさまが寄せてくださった一首評と、ブログや総合誌に掲載された本人のエッセイのよりぬきが掲載されています。なお、印刷費は一首評参加者の皆様のカンパにより賄われました。改めて、心から御礼を申し上げます。

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『崖にて』の装丁と響き合う、花山周子さんのデザイン。

 

11月の文学フリマ東京では北山さんと佐巻さんが「へペレの会」として出展予定で、そこで「別冊」も一緒に売っていただく予定だったのですが、にっくき新型コロナウイルスの感染拡大のため、急遽お2人は上京を断念。私が代理で売り子を務め、お2人はなんと札幌からオンラインで売り子をしてくれました!

 

なおこの日、『崖にて』はアッサリ完売。そして、まっすぐ「別冊」を買い求めにきてくださった方もいて(いわゆる、歌人じゃない方も多くて)、北山あさひには既に読者ががっつりいることを肌で感じた1日でした。

そして2021年1月、短歌総合誌には『崖にて』について多くの言及があります。私も「短歌研究」で3回担当した「最新刊歌集歌書評・共選」というコーナーで、編集部のリクエストに応えて崖を取り上げたのですが、掟破りの1頁ぶち抜きでお届けいたしました(断りを入れて、取り上げる冊数を1冊減らして行数を捻出)。

 

『崖にて』についての掲載情報は、北山さんのブログにまとまっています。圧巻です。

ameblo.jp

 

多くの方の評を読み、すばらしい歌集は、すばらしい読み手によって輝きが増すということを実感しました。こんなふうに話題になっている今、あらためて『別冊 北山あさひ』は、『崖にて』の読書体験をより豊かにしてくれる最良の“おとも”だと思っています。

現在書店さんでの委託販売を行っていますが、まもなく自家通販の準備が整いますので、またあらためてご案内したいと思います。

取り扱い書店様はこちら↓

 

 

北山さんとなこちゃんとはこの件で数か月間やり取りをしていますが、東京文フリで2人に会うことはかなわなかったし、私も札幌に行くのは自重していて、ぜんぜん会えないのが辛いです。早くいっしょにサッポロビールを飲みながら、ジンギスカンをつつきたい…。はやくゼネカ様になんとかしてほしい(『別冊 北山あさひ』書き下ろしエッセイ「その名は『ファーマーズ8』」より)。