めんたいこ日記

鯨井可菜子が短歌について書くところ

ようこそ、話し合いのテーブルへ/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店,2021)感想

 

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私がそのテーブルにつく理由

平岡直子の短歌について、私は以前から「綺麗だなぁと思ってショーウインドウに近寄ったつもりが、いつの間にか話し合いのテーブルにつかされている」と思っていて、それって“良さ”については何も説明できていないし、自分でもどういう意味なのかよくわからないのだけど、それでも半ば信仰のようにこのインスピレーションを胸に抱き続けてきた。そろそろ、その正体について真面目に考えてみなくちゃと思う。

 

まず、手がかりにしたのがこれらの歌。

012 茶封筒〈がん検診のおしらせ〉の字は宝石にたとえたら何

055 そうかきみはランプだったんだねきみは光りおえたら海に沈むね

095 裸ならだれでもいいわ光ってみて泣いてるみたいに光ってみせて

097 冷凍庫にほうれん草を眠らせたままでしずかに 膝を折りなよ

116 観客はじゃがいもと言われたじゃがいもの気持ちを考えたことがあるのか

 

これらは、〈歌〉から突然話しかけられる、問われる、何かを要請されるような構造の歌。

1首目、郵便受けから持ち帰り、テーブルに置かれている封筒だろうか。生活感あふれるモチーフから導き出される突然の問いに身がすくむ。油断してちゃだめなんだ。一方で、茶封筒から宝石が取り出されたような感嘆ももたらされる。

2首目。ランプ、光、海といったまろやかな語彙でやさしく肯定してくれるような口調。でも結句に、そうか私、沈まないといけないんだ。という甘美な詰みが待っている。

3首目。2首目に続いて「光る」ことの歌。「だれでもいい」のに、「光ってみて」「光ってみせて」と熱心に乞われる。「だれでもいい」のに、相手が「光る」ことについてやればできるっていう確信がある。

4首目。「冷凍庫」「眠らせたまま」「しずかに」の連打により、すでに息ができなくなっているというのに、「膝を折りなよ」とジェントルに提案される。身体のどこを曲げるか、ということについて「膝」は最もクリティカルでやばいと思う。立位なのか座位なのかはわからないが、そこに釘付けにするような動作だからだ。

そして5首目。全面的にじゃがいもの側に立った、非難めいた問いに思わず窮する。特徴は、2句目と4句目が9音の破調になっていること。この字余りにより自然と早口になり、〈問い詰め感〉が増している。でもよく考えたら、「観客をじゃがいも」にしてステージに立つような人間はほんの一握り。じゃがいもにされた観客のほうが圧倒的多数派なのだった。本当は私だってじゃがいもじゃないか。

 

というふうに見てきたけれども…。やはり、こういう話しかけ・問い・要請の〈構造〉だけでは説明がつかない。最初にはっきり〈話し合いのテーブル〉だと思ったのは何故だろう?少なくともネゴシエーションの話じゃないと思う。でも、魂に最も大切なものを差し出してくるから、ショーウインドウの外から「綺麗だなぁ」と無責任に眺めて楽しむわけにはいかない気持ちになるんじゃないか。だから私も、真剣に応えようと、覚悟を決めて椅子を引くのだ。

 

〈わたし〉と〈きみ〉のイノセンス

以下には、平岡直子の超代表歌!を含むと思う(このなかの4首は帯にも引かれている)。

009 きみの頬テレビみたいね薄明の20世紀の思い出話

018 水からも生きる水しかすくわないわたしの手でよかったら、とって

029 手をつなげば一羽の鳥になることも知らずに冬の散歩だなんて

057 海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した

063 わたしたちの避難訓練は動物園のなかで手ぶらで待ち合わせること

072 三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

 

怒涛のポエジーに圧倒されながらも何とか見つけたヒントは、“無垢である”ということ。

巻頭に置かれたのがこの1首目。「20世紀」のノスタルジックな語感が、ぼおっと光をたたえたブラウン管の姿を浮かび上がらせる。「20世紀」で「思い出」、つまり過去のはずなのに、「薄明」により「きみ」はまっさらな存在となり、物語がはじまる予感を連れてくる。

2首目、3首目は「手をとりあう」ことが核にあるのだけど、〈取り返しのつかなさ〉みたいなものが迫ってくるのはどうしてだろう。2首目はさながら〈契約〉だし、3首目は単にかたちのことを言っているのではなく、不可逆な変身を指しているような気がする。

そして4首目、5首目。いっしょに読むと、「わたしたち」は安全なところにいないのだと思う。「生き延び方」について話す必要があるし、「避難訓練」だって怠ってはならない。6首目にも、待ち合わせ場所にたどり着くことができない、寄る辺なさがある。「悲しいだった」という舌足らずな繰り返しも、イノセンスの現れのように思えてくる(でも幼いという感じはしない)。強い信念をもっていながら、生きるのに危うく、どこまでも無垢な存在として、〈わたし〉と〈きみ〉は、手を取り合ってずっと旅をしている。

 

天国のことを見てきたように

116 わたしにも父のと同じイニシャルがあるけれどそれ壊れているの

132 窓、夜露、星条旗、海、きらきらとお金で買える指輪ください

137 熱砂のなかにボタンを拾う アンコールがあればあなたは二度生きられる

1首目、「父」とのつながりを示す記号としてのイニシャルが、「壊れているの」、つまり機能していないということ。親子関係の暗示だと飛びついて読むのは簡単だけど、それ以上に、「イニシャル」が壊れたちゃちな金具のような姿をさらしているのが強烈だ。この歌の読みどころはこっちじゃないかな。

2首目、3首目、魂の栄養のために必要なものを希求していると思う。熱砂のなかに拾ったボタンはきっと金属で、指先にもその熱が伝わってくる。「アンコールがあれば」と第三者的に言ってはいるけれど、一番に願っているのは「あなた」に相対する「わたし」で、その指でアンコールを起こすことができるような気さえする。

 

平岡作品の詩的な引力は、〈腕〉を持っていると思う。それくらい強く、私たちの身体のどこかを明確に掴んで、その世界に引きずり込んでくる。話し合いのテーブルにつかされるのも、半分はそのせいだと思っている。

 

020 ピアニストの腕クロスする天国のことを見てきたように話して

天国のことを見てきたように、この歌集のことを誰かに話したいと思う。

そしてお土産にもらった、美しく光る短刀(おもちゃかもしれないけれど、それでいい)を胸に携えて、同じ時代を生きていきたい。平岡直子と同い年であるということは、私の自慢の1つなのだ。